2024.10.07
私たちは今、デジタルの迷宮に迷い込んでいる。
web3.0。それは、分散型で、ユーザー主導の、真に自由なインターネットの約束だった。しかし、その約束は果たされたのだろうか。否、むしろ私たちは新たな檻の中に閉じ込められつつあるのではないか。
現実を直視しよう。私たちの周りには、相変わらずweb2.0の名残が蔓延している。むしろ、その存在感は日に日に増しているようにさえ見える。広告は私たちの視界を埋め尽くし、アルゴリズムは私たちの思考を誘導し続けている。
そして、さらに皮肉なことに、web3.0を謳う者たちの中にさえ、中央集権的な権力構造に擦り寄る動きが見られる。
非中央集権を目指すはずのweb3.0。その理念とは裏腹に、NFTなどの技術を政府に売り込む輩が現れている。これは単なる矛盾ではない。それは、理想の裏切りだ。
なぜ、このような事態が起こるのか。
その答えは、人間の本質、そして現代社会の構造に根ざしている。
私たちは、「自由」を求めながら、同時に「安定」や「利益」も欲している。web3.0が提供する自由は、同時に大きな責任と不確実性をも伴う。一方、既存の権力構造に擦り寄ることは、短期的な利益と安定をもたらす。
この葛藤。この二律背反。それこそが、現代のデジタル社会が直面している本質的なジレンマなのだ。
web3.0の理念は確かに崇高だった。ブロックチェーン技術を基盤とした分散型システム。中央集権的な管理者不在のネットワーク。ユーザー自身がデータの所有権を持つ世界。それは、デジタル時代の民主主義の理想形とも言えるものだった。
しかし、理想と現実の間には常に深い溝がある。その溝を埋めるはずだった技術が、逆に新たな権力構造を生み出してしまっている。
NFTを例に取ろう。それは本来、デジタルアセットの真の所有権をユーザーに与えるための技術だった。しかし今、それは投機の対象となり、さらには政府への売り込みの道具となっている。
これは、技術の本質的な問題ではない。それは、その技術を扱う人間の側の問題だ。
web3.0の理念を掲げながら、実際には旧来の権力構造に擦り寄る。この二面性こそが、現代のデジタル社会の本質を映し出している。
私たちは、新しい技術を手に入れた。しかし、その技術を扱う私たちの意識は、まだ古い枠組みから抜け出せていない。
この状況を単純に「web3.0の失敗」と結論づけるのは早計だろう。むしろ、ここに私たちは、人間の意識と技術の不協和音を聴き取るべきではないか。