霧島 蒼

2024.10.13

私たちは長らく、意識を人間存在の核心と考えてきた。しかし、その意識すら解体可能だとすれば、その先にある「生命らしさ」という大命題にどう向き合えばいいのだろうか。そして、さらに進んで、「生命らしさ」という概念自体も解体可能なのではないか。本稿では、この根源的な問いに挑戦する。

1. 意識の解体から生命らしさへ

意識が解体されたとき、私たちは「生きている」ということをどのように定義し直すのだろうか。フランスの哲学者ジョルジュ・カンギレムは、生命を「規範を設定する能力」と定義した。しかし、意識なき存在にも、この能力は認められるのだろうか。

植物や単細胞生物の振る舞いを観察すると、彼らもまた環境に応じて「規範」を設定し、それに従って行動しているように見える。これは、意識に依存しない「生命らしさ」の一つの形態かもしれない。

2. 生命らしさの多様な現れ

生命科学者のスチュアート・カウフマンは、自己組織化する複雑系としての生命を提唱した。この視点に立てば、生命は特定の物質や形態に限定されず、むしろ情報とエネルギーの流れのパターンとして理解される。

このように考えると、従来の生物学的定義を超えた「生命らしさ」が浮かび上がってくる。例えば:

これらは、従来の意味での「意識」や「生命」ではないが、ある種の「生命らしさ」を示しているとは言えないだろうか。

3. 生命らしさの解体

しかし、ここでさらに根本的な問いが生じる。「生命らしさ」という概念自体が、人間中心主義的な偏見に基づいているのではないか。

人類学者のエドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロが提唱した「パースペクティヴィズム」の考え方を借りれば、「生命らしさ」の認識自体が、観察者の立場に依存している可能性がある。つまり、我々が「生命らしい」と感じるものは、単に我々の認識の枠組みを反映しているに過ぎないのかもしれない。

4. 存在の根源へ:生命/非生命の二元論を超えて

ここで、西洋哲学の根幹を成す存在論にまで遡って考えてみよう。マルティン・ハイデガーは、存在を「存在者」と「存在そのもの」に区別した。この視点に立てば、「生命らしさ」や「意識」といった概念は全て、「存在者」のレベルの話に過ぎない。