霧島蒼

2024.10.14

言葉という檻の中で、私たちは息を潜めている。

時に飛び交う言葉の嵐。SNSの文字の洪水。それらは、私たちを繋ぐのか、それとも分断するのか。デジタル時代の到来とともに、言語コミュニケーションはかつてない広がりを見せた。しかし、その裏で失われゆくものがある。身体の温もり、目と目が合う瞬間の緊張、沈黙の中に漂う意味。

日々、私たちの周りで起こっている光景。スマートフォンを覗き込む人々。時折、画面を見せ合い、言葉を交わす。一見、親密そうに見える。しかし、その目は互いを見ていない。指先で画面をなぞる動きには、どこか焦燥感が漂う。

彼らは「繋がっている」のだろうか。それとも、言葉という幻想に囚われているだけなのか。

非言語コミュニケーションの復権。それは、単なる懐古主義ではない。むしろ、人間存在の本質に関わる問題だ。哲学者のメルロ=ポンティが指摘したように、私たちの存在は本質的に身体的なものだ。言語以前に、私たちは身体を通じて世界と交わっている。

しかし、現代社会は急速にこの身体性を忘却しつつある。Zoomやチャットが主流となる中で、私たちは「効率的な」コミュニケーションを追求してきた。だが、その代償は計り知れない。共感力の低下、身体感覚の鈍化、そして何より、存在そのものの希薄化。

ここで、ある禅問答を思い出す。

弟子:「言葉なしに真理を伝えることはできますか?」 師:「春風が吹けば、草は自ずから靡く」

この答えは、言葉による説明を拒絶している。しかし同時に、深遠な真理を示唆してもいる。言葉を超えた次元で、世界は絶えず私たちに語りかけている。その声に耳を傾けることが、今ほど必要とされている時代はないのではないか。

もちろん、これは言語の否定ではない。言語は人類の偉大な発明であり、文明の基盤だ。問題は、言語への過度の依存と、非言語的な経験の軽視にある。

では、具体的にどうすればいいのか。

まず、日常の中で意識的に「沈黙の時間」を設けてみてはどうだろう。スマートフォンを置き、ただそこにいること。周囲の音、空気の動き、自分の呼吸。それらに意識を向ける。最初は落ち着かないかもしれない。しかし、その不快感こそが、私たちがいかに言葉に依存しているかを示している。

次に、対面でのコミュニケーションを大切にしよう。画面越しではなく、実際に人と向き合う。その際、言葉だけでなく、表情、姿勢、声のトーンにも注意を向ける。時には、言葉を交わさずに見つめ合うことも試みてみる。そこには、言葉では表現できない深い繋がりが生まれるかもしれない。

芸術との対話も重要だ。抽象絵画、現代音楽、舞踏。これらは全て、言語化を拒む経験を提供してくれる。それらに触れることで、私たちの感性は磨かれ、言葉を超えた表現の可能性に目覚めるだろう。

そして、自然との直接的な触れ合い。土の感触、木々のざわめき、風の温度。これらは全て、言葉にならないメッセージを私たちに送っている。都市化が進む現代だからこそ、意識的にこの経験を求める必要がある。

しかし、ここで自戒を込めて言わねばならない。この文章もまた、言葉による表現だ。非言語コミュニケーションの重要性を、皮肉にも言葉で説いている。この矛盾から完全に逃れることはできない。